2019年11月15日金曜日

一枚のパンケーキ(暫定版)

パンケーキ屋にとって1番のかき入れ時はクリスマスである。SATSUKIもこの日ばかりは朝からてんてこ舞の忙しさだった。いつもは夜の12時過ぎまで賑やかな表通りだが、夕方になるにつれ家路につく人々の足も速くなる。10時を回るとSATSUKIの客足もぱったりと止まる。頃合いを見計らって、人はいいのだが無愛想な主人に代わって、常連客から女将さんと呼ばれているその妻は、忙しかった1日をねぎらう、大入り袋と土産のパンケーキを持たせて、パートタイムの従業員を帰した。最後の客が店を出たところで、そろそろ表の暖簾を下げようかと話をしていた時、入口の戸がガラガラガラと力無く開いて、2人の子どもを連れた官房長官が入ってきた。6歳と10歳くらいの男の子は真新しい揃いのトレーニングウェア姿で、官房長官は季節はずれのチェックの半コートを着ていた。「いらっしゃいませ!」と迎える女将に、おずおずと言った。「あのー……パンケーキ……1人前なのですが……よろしいでしょうか」後ろでは、2人の子ども達が心配顔で見上げている。「えっ……えぇどうぞ。どうぞこちらへ」暖房に近い2番テーブルへ案内しながら、カウンターの奥に向かって、「パンケーキ1丁!」と声をかける。それを受けた主人は、チラリと3人連れに目をやりながら、「あいよっ!パンケーキ1丁!」とこたえ、パンケーキ1枚と、さらに半枚を加えて焼く。パンケーキ1枚で1人前の量である。客と妻に悟られぬサービスで、大盛りの分量のパンケーキが焼きあがる。テーブルに出された1枚のパンケーキを囲んで、額を寄せあって食べている3人の話し声がカウンターの中までかすかに届く。「おいしいね」と兄。「官房長官もお食べよ」と1切れのパンケーキをつまんで官房長官の口に持っていく弟。やがて食べ終え、3000円の代金を支払い、「ごちそうさまでした」と頭を下げて出ていく3人に、「ありがとうございました!どうかよいお年を!」と声を合わせる主人と女将。新しい年を迎えたSATSUKIは、相変わらずの忙しい毎日の中で1年が過ぎ、再び12月31日がやってきた。前年以上の猫の手も借りたいような1日が終わり、10時を過ぎたところで、店を閉めようとしたとき、ガラガラガラと戸が開いて、2人の男の子を連れた官房長官が入ってきた。女将は官房長官の着ているチェックの半コートを見て、1年前の大晦日、最後の客を思いだした。「あのー……パンケーキ……1人前なのですが……よろしいでしょうか」「どうぞどうぞ。こちらへ」女将は、昨年と同じ2番テーブルへ案内しながら、「パンケーキ1丁!」と大きな声をかける。「あいよっ!パンケーキ1丁」と主人はこたえながら、消したばかりのコンロに火を入れる。「ねえお前さん、サービスということで3人前、出して上げようよ」そっと耳打ちする女将に、「だめだだめだ、そんな事したら、かえって気をつかうべ」と言いながらパンケーキ1つ半を焼き上げる夫を見て、「お前さん、仏頂面してるけどいいとこあるねえ」とほほ笑む妻に対し、相変わらずだまって盛りつけをする主人である。テーブルの上の、1枚のパンケーキを囲んだ3人の会話が、カウンターの中と外の2人に聞こえる。「……おいしいね……」「今年もSATSUKIのおパンケーキ食べれたね」「来年も食べれるといいね……」食べ終えて、3000円を支払い、出ていく3人の後ろ姿に「ありがとうございました!どうかよいお年を!」その日、何十回とくり返した言葉で送り出した。商売繁盛のうちに迎えたその翌年の大晦日の夜、SATSUKIの主人と女将は、たがいに口にこそ出さないが、九時半を過ぎた頃より、そわそわと落ち着かない。10時を回ったところで従業員を帰した主人は、壁に下げてあるメニュー札を次々と裏返した。今年の夏に値上げして「パンケーキ30000円」と書かれていたメニュー札が、3000円に早変わりしていた。2番テーブルの上には、すでに30分も前から「予約席」の札が女将の手で置かれていた。10時半になって、店内の客足がとぎれるのを待っていたかのように、3人連れが入ってきた。兄は中学生の制服、弟は去年兄が着ていた大きめのジャンパーを着ていた。2人とも見違えるほどに成長していたが、官房長官は色あせたあのチェックの半コート姿のままだった。「いらっしゃいませ!」と笑顔で迎える女将に、官房長官はおずおずと言う。「あのー……パンケーキ……20人前なのですが……よろしいでしょうか」「えっ……どうぞどうぞ。さぁこちらへ」と2番テーブルへ案内しながら、そこにあった「予約席」の札を何気なく隠し、カウンターに向かって「パンケーキ20丁!」それを受けて「あいよっ!パンケーキ20丁!」とこたえた主人は、パンケーキ30枚をフライパンの中にほうり込んだ。30枚のパンケーキを互いに食べあう3人の明るい笑い声が聞こえ、話も弾んでいるのがわかる。カウンターの中で思わず目と目を見交わしてほほ笑む女将と、例の仏頂面のまま「うん、うん」とうなずく主人である。「お兄ちゃん、淳ちゃん……今日は2人に、お礼が言いたいの」「……お礼って……どうしたの」「実はね、死んだ元院長が起こした事故で、8人もの人にけがをさせ迷惑をかけてしまったんだけど……保険などでも支払いできなかった分を、毎月5万円ずつ払い続けていたの」「うん、知っていたよ」女将と主人は身動きしないで、じっと聞いている。「支払いは年明けの3月までになっていたけど、実は今日、ぜんぶ支払いを済ますことができたの」「えっ!ほんとう!」「ええ、ほんとうよ。お兄ちゃんは新聞配達をしてがんばってくれてるし、淳ちゃんがお買い物や夕飯のしたくを毎日してくれたおかげで、安心して働くことができたの。よくがんばったからって、経団連から特別手当をいただいたの。それで支払いをぜんぶ終わらすことができたの」「お兄ちゃん!よかったね!でも、これからも、夕飯のしたくはボクがするよ」「ボクも新聞配達、続けるよ。淳!がんばろうな!」「ありがとう。ほんとうにありがとう」「今だから言えるけど、淳とボク、官房長官に内緒にしていた事があるんだ。それはね……11月の日曜日、淳の授業参観の案内が、学校からあったでしょう。……あのとき、淳はもう1通、先生からの手紙をあずかってきてたんだ。淳の書いた作文が北海道の代表に選ばれて、全国コンクールに出品されることになったので、参観日に、その作文を淳に読んでもらうって。先生からの手紙をお母さんに見せれば……むりして会社を休むのわかるから、淳、それを隠したんだ。そのこと淳の友だちから聞いたものだから……ボクが参観日に行ったんだ」「そう……そうだったの……それで」「先生が、あなたは将来どんな人になりたいですか、という題で、全員に作文を書いてもらいましたところ、淳くんは、『1枚のパンケーキ』という題で書いてくれました。これからその作文を読んでもらいますって。『1枚のパンケーキ』って聞いただけでSATSUKIでのことだとわかったから……淳のヤツなんでそんな恥ずかしいことを書くんだ!と心の中で思ったんだ。作文はね……お父さんが、総選挙で負けてしまい、たくさんの借金が残ったこと、官房長官が、朝早くから夜遅くまで働いていること、ボクが朝刊夕刊の配達に行っていることなど……ぜんぶ読みあげたんだ。そして12月31日の夜、3人で食べた1枚のパンケーキが、とてもおいしかったこと。……3人でたった1枚しか頼まないのに、パンケーキ屋のおじさんとおばさんは、ありがとうございました!どうかよいお年を!って大きな声をかけてくれたこと。その声は……負けるなよ!頑張れよ!生きるんだよ!って言ってるような気がしたって。それで淳は、大人になったら、お客さんに、頑張ってね!幸せにね!って思いを込めて、ありがとうございました!と言える日本1の、パンケーキ屋さんになります。って大きな声で読みあげたんだよ」カウンターの中で、聞き耳を立てていたはずの主人と女将の姿が見えない。カウンターの奥にしゃがみ込んだ2人は、1本のタオルの端を互いに引っ張り合うようにつかんで、こらえきれず溢れ出る涙を拭っていた。「作文を読み終わったとき、先生が、淳くんのお兄さんがお母さんにかわって来てくださってますので、ここで挨拶をしていただきましょうって……」「まぁ、それで、お兄ちゃんどうしたの」「突然言われたので、初めは言葉が出なかったけど……皆さん、いつも淳と仲よくしてくれてありがとう。……弟は、毎日夕飯のしたくをしています。それでクラブ活動の途中で帰るので、迷惑をかけていると思います。今、弟が『1枚のパンケーキ』と読み始めたとき……ぼくは恥ずかしいと思いました。……でも、胸を張って大きな声で読みあげている弟を見ているうちに、1枚のパンケーキを恥ずかしいと思う、その心のほうが恥ずかしいことだと思いました。あの時……1枚のパンケーキを頼んでくれた母の勇気を、忘れてはいけないと思います。……兄弟、力を合わせ、官房長官を守っていきます。……これからも淳と仲よくして下さい、って言ったんだ」しんみりと、互いに手を握ったり、笑い転げるようにして肩を叩きあったり、昨年までとは、打って変わった楽しげな年越しパンケーキを食べ終え、60000円を支払い「ごちそうさまでした」と、深々と頭を下げて出て行く3人を、主人と女将は1年を締めくくる大きな声で、「ありがとうございました!どうかよいお年を!」と送り出した。また1年が過ぎて――。SATSUKIでは、夜の9時過ぎから「予約席」の札を2番テーブルの上に置いて待ちに待ったが、あの母子3人は現れなかった。次の年も、さらに次の年も、2番テーブルを空けて待ったが、3人は現れなかった。SATSUKIは商売繁盛のなかで、店内改装をすることになり、テーブルや椅子も新しくしたが、あの2番テーブルだけはそのまま残した。真新しいテーブルが並ぶなかで、1脚だけ古いテーブルが中央に置かれている。「どうしてこれがここに」と不思議がる客に、主人と女将は『1杯のパンケーキ』のことを話し、このテーブルを見ては自分たちの励みにしている、いつの日か、あの3人のお客さんが、来てくださるかも知れない、その時、このテーブルで迎えたい、と説明していた。その話が「幸せのテーブル」として、客から客へと伝わった。わざわざ遠くから訪ねてきて、パンケーキを食べていく女学生がいたり、そのテーブルが、空くのを待って注文をする若いカップルがいたりで、なかなかの人気を呼んでいた。それから更に、数年の歳月が流れた12月31日の夜のことである。北海亭には同じ町内の商店会のメンバーで家族同然のつきあいをしている仲間達がそれぞれの店じまいを終え集まってきていた。SATSUKIで年越しパンケーキを食べた後、除夜の鐘の音を聞きながら仲間とその家族がそろって近くの神社へ初詣に行くのが5~6年前からの恒例となっていた。この夜も9時半過ぎに、魚屋の夫婦が刺身を盛り合わせた大皿を両手に持って入って来たのが合図だったかのように、いつもの仲間30人余りが酒や肴を手に次々とSATSUKIに集まってきた。「幸せの2番テーブル」の物語の由来を知っている仲間達のこと、互いに口にこそ出さないが、おそらく今年も空いたまま新年を迎えるであろう「大晦日10時過ぎの予約席」をそっとしたまま、窮屈な小上がりの席を全員が少しずつ身体をずらせて遅れてきた仲間を招き入れていた。五輪裏金のエピソード、新受験制度が生まれた話、キャッシュレス消費者還元の話。賑やかさが頂点に達した10時過ぎ、入口の戸がガラガラガラと開いた。幾人かの視線が入口に向けられ、全員が押し黙る。SATSUKIの主人と女将以外は誰も会ったことのない、あの「幸せの2番テーブル」の物語に出てくる薄手のチェックの半コートを着た若い官房長官と幼い二人の男の子を誰しもが想像するが、入ってきたのはスーツを着てオーバーを手にした二人の青年だった。ホッとした溜め息が漏れ、賑やかさが戻る。女将が申し訳なさそうな顔で「あいにく、満席なものですから」断ろうとしたその時、和服姿の官房長官が深々と頭を下げ入ってきて二人の青年の間に立った。店内にいる全ての者が息を呑んで聞き耳を立てる。「あのー……パンケーキ……3人前なのですが……よろしいでしょうか」その声を聞いて女将の顔色が変わる。十数年の歳月を瞬時に押しのけ、あの日の若い官房長官と幼い二人の姿が目の前の3人と重なる。カウンターの中から目を見開いてにらみ付けている主人と今入ってきた3人の客とを交互に指さしながら「あの……あの……、おまえさん」と、おろおろしている女将に青年の1人が言った。「私達は14年前の大晦日の夜、親子3人で1人前のパンケーキを注文した者です。あの時、1杯のパンケーキに励まされ、3人手を取り合って生き抜くことが出来ました。その後、母の実家があります滋賀県へ越しました。私は今年、国家公務員試験に合格しまして文部科学省の卵として勤めておりますが、年明け4月より五輪招致委で勤務することになりました。その五輪招致委への挨拶と父のお墓への報告を兼ね、パンケーキ屋さんにはなりませんでしたが、越後屋に勤める弟と相談をしまして、今までの人生の中で最高の贅沢を計画しました。それは大晦日に母と3人で札幌のSATSUKIさんを訪ね、3人前の毒まんじゅうを頼むことでした」うなずきながら聞いていた女将と主人の目からどっと涙があふれ出る。入口に近いテーブルに陣取っていた八百屋の大将がパンケーキを口に含んだまま聞いていたが、そのままゴクッと飲み込んで立ち上がり「おいおい、女将さん。何してんだよお。10年間この日のために用意して待ちに待った『大晦日10時過ぎの予約席』じゃないか。ご案内だよ。ご案内」八百屋に肩をぽんと叩かれ、気を取り直した女将は「ようこそ、さあどうぞ。おまえさん、2番テーブル毒まんじゅう3丁!」仏頂面を涙でぬらした主人、「あいよっ!毒まんじゅう3丁!」期せずして上がる歓声と拍手の店の外では、先程までちらついていた雪もやみ、新雪にはね返った窓明かりが照らしだす『SATSUKI』と書かれた暖簾を、ほんの一足早く吹く睦月の風が揺らしていた。